
昨年(2006年7月)から、僕は会社のお許しを得て、月10日の勤務形態となった。
2006年4月、僕は満65歳となり年金もいただける身となったので、少しでもこれまでの会社人間からの脱却を図ろうとしたのだ。山登り、読書、著作、市民運動など、会社勤めでは十分できなかったことをこれから実行するのだ。
7月22日、新聞に目をやると7月22日よりロードショウ「蟻の兵隊」“日本軍山西省残留問題”渋谷イメージフォーラム(映画館の名前)の広告がある。僕は早速、この映画を見ることにした。
1970年代、僕がインドネシアで数年働いているとき、この国でも「帰らなかった日本兵」をよく見かけた。彼らの帰らなかった原因は様々だが、基本的には連合国、この場合オランダと英国がインドネシアの独立運動を抑えるため、日本軍の武装解除を認めず、復員も許さず、英軍と蘭軍到着までの治安組織として日本軍を利用したからだった。
帰国実現が遠い先となったと判断した日本兵のなかには、日本軍を脱走して、すすんでインドネシア独立闘争に身を投じたもの、現地の女性と結婚するものが出た。勿論、これらの日本兵は脱走兵として、日本政府からは恩給の受給資格を剥奪されたのだ。
「蟻の兵隊」は、奥村和一(80歳)が、執念を込めて日本軍山西省残留問題の真相解明に奔走するドキュメンタリー映画だ。2600名もの日本兵が、何故、戦後復員することもなく、残留に至ったのか。ここでもボツダム宣言9項「日本国軍隊は完全に武装を解除されたる後、各自の家庭に復帰し・・・」が実行されていないのだ。日本が無条件降伏したことは、全軍が知っていたことだ。
当時、中国大陸では中国共産党軍(八路軍)と国民党軍の内戦中であった。山西省には蒋介石の率いる中国国民党軍第二戦区司令官閻錫山(えんしゃくざん)将軍がいた。山西省に展開していた日本軍は北支那派遣軍の第一軍59千名(司令官は澄田中将)であった。
中国における日本軍の非道ぶりは、いろいろな機会に耳にする。
山西省の日本軍は閻錫山の軍に降伏する。山西省で日本軍が戦ってきたのは、中国共産党軍で、閻錫山の軍とは戦ってこなかったのだ。降伏のあとは、日本軍の武装解除と戦犯追及が行われるのが筋だ。閻錫山は、澄田中将に「取引」を持ちかける。即ち、中将に対する戦犯訴追を見送る見返りに中国共産党軍と戦う日本軍を残してほしい。
こうして、世界史上例を見ない売軍行為が行われたのだ。奥村を含む2600名の日本兵が、戦後4年間も中国大陸で国民党軍として人民解放軍との戦いを継続したのだ。1949年4月24日、大原城陥落により残留日本軍は降伏、捕虜となった。このとき、日本兵捕虜の生命保証を人民解放軍と掛け合い、その約束を取り付けた後、27日に自決したのが、今村方策大佐(山西省残留日本軍総隊長)だ。今村は部下の誰からも敬愛されていたと奥村は回想する。
今村大佐は日本軍山西省残留部隊が、軍の上層部によって「売られた軍隊」であることを知っていたに違いない。今村大佐は最後に死をもってこれを贖ったのだろう。彼が陸軍きっての名将今村均大将の弟であることはあまり知られていない。日本降伏後、550名が戦死、700名が捕虜になった。奥村もその捕虜のひとりだった。
奥村たちは、1954年9月、興安丸で舞鶴に帰国、その船中、彼らは現地除隊の民間人扱いをされていることに気づく。帰国後、故郷新潟の県庁で兵籍簿を見て、奥村自身の現地除隊を確認する。日本軍山西省残留問題は、当時、国会でも問題視され、澄田元中将や山岡元参謀長等が証言するが、彼らは事実を否定する。
もう、待てない。国に期待できない。我々は高齢化している。奥村は2001年国を相手取り裁判を起こす。奥村は事実確認のため、中国を何度か訪れる。奥村は中国側からの資料で、澄田中将の密約の事実の確信を更に抱く。そして、自分たちが御国のためと言いながら、いかに中国の一般市民や農民に計りしれない損害を与えたのかを知るようになる。
この映画の途中で桜の花咲く靖国神社が映し出される。その花の下を不恰好でアナクロニズムの化け物のような軍服を着た若者や老人たちの行進が映し出される。その前を歩む見慣れた男がいる。小野田寛郎だ。
奥村は小野田に声をかける。
「小野田さん、あなたは侵略戦争を美化するのですか?」
小野田は、あの自分の終戦となった1974年3月、自らの軍刀をフィリピン軍司令官に差し出したときのような鋭い目つきで奥村に向って「貴様は、陛下の開戦の詔書を読め!」
とひと声浴びせると、供の者と群集のなかに消えていった。
奥村の国との戦いは、2005年9月、最高裁判所の上告棄却で終っている。国および司法の冷徹さを感じざるをえない。国の奥村達原告13名への判断は、誰が手続きをしたかも不明の現地除隊兵である。戦争は、国も軍隊をも狂気に導くものだ。
1972年1月24日グアム。
横井庄一はいつものように住居である洞穴から出ると、タロフォフォ川を歩いて遡上し、上流の3段からなる滝へと向った。洞窟からジャングルの陸上を歩くと、足跡が残ることを配慮してのことだった。横井は決して村の人のものは盗まなかった。横井は、招集前は洋服屋で生計を立てていた。軍隊では1938年と1941年の2度に亘って招集を受けている。
2度とも所属は輜重隊であり、戦闘主体の兵でなかったことが、生き延びる慎重さや武力に頼ってリスクを冒さないと言う知恵をもたらしたのだろう。村の人の財産を盗めば捜索が始まり、自分は捕まって殺されるだろう。この滝壺の池には、手長海老やウナギ、鱒に似た魚が手づかみで捕れるのだった。
現在、タロフォフォの滝は、韓国資本によって観光地として整備されている。滝の美しさと横井庄一の穴の2枚看板で、いまも観光客をたくさん集めているようだ。運命の日の午後6時半、横井は仕掛けた竹篭の中の魚を捕りに行ったのだ。1月のグアムの午後6時半は、太陽がとっぷり暮れて、太陽の反射光であたりがウッスラ見えるころだ。横井が竹篭を取り上げて立ち上がったとき、川岸に二人の島の男が、猟銃を持ってたっているのが見えた。横井は思わず二人に駆け寄り、その銃に手を伸ばしたが、簡単にその場に組み伏せられてしまう。
「恥ずかしながら生き長らえて、帰ってまいりました。」
1972年2月2日午後2時15分、横井の羽田到着の第一声だった。「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う戦陣訓が横井の脳裏から離れなかったのだろう。2年後、ルバング島で見つかった小野田寛郎が、上官の命令がない以上降伏しない、と言う勇ましさに比べて、ひたすら隠れて救出を待ち続ける横井の態(ざま)は何だ!
世間から寄せられる心無い非難も横井の心の疵となったのだろう。
19,135名もこの島で日本の兵隊さんが亡くなっている。横井にはこれらの戦友に対する思いも強かったに違いない。戦後、28年もくだらない軍規や、終戦の始末をしなかった政府の怠慢で、普通なら洋服屋のおやじとして平穏な市民生活を送っているはずの男に、このような苦難と屈辱を戦争は強いるのだ。横井はその晩年、「俺は餓死したいよ。」と妻の美保子に語ったと言う。
横井は1997年9月22日、この世を去っている。
この年の11月、僕はホテル・ゴルフリゾートの職員としてこの島を訪れている。僕はグアムでの勤務中は知らなかったのだが、横井の穴(ヨコイ・ケーヴ)は、現在のものは作り物で、本当の横井の穴の場所は、もう誰も知らないようだ。本年11月、グアムから帰国して4度目のグアム訪問の機会があった。街には日本人観光客が溢れ、極めて平和のようだ。しかし、この島は米軍の島でもある。沖縄から海兵隊が移転するとのことで、グアムは不動産景気で沸き返っていた。沖縄と同じく島の30%近くが、米軍基地として収用されているのが、グアムだ。
フィリピンのメイン・アイランドであるルソン島から西に数10キロ、マニラから南に150キロ離れたところに浮かぶ島が、ルバング島である。島は南北27キロ、東西10キロと言うから、グアムより遥かに小さな島だ。1945年2月、この島にやってきた米軍は、たった1個大隊と戦車4両程度の規模で、これを迎え撃つ日本軍は200名程度だった。ルバング島での組織的戦闘は4日で終了したが、グアムでの戦いは1944年7月21日に始まり、8月10日まで21日間続いたあと、日本軍は壊滅した。米軍の上陸部隊2個師団25千名、海を覆うばかりの機動部隊と制空権を持つ航空機数百機、迎え撃つ日本軍は艦船、航空機なく、水際撃滅を期する陸上部隊19千名だった。
横井の戦争は近代戦争(War)で、小野田のそれはゲリラ戦(Battle)だったと言えよう。
小野田は中野学校(陸軍のスパイ養成学校)の出身で残置諜者として玉砕は極力避けて、後方攪乱を専らとする戦いを、降伏までの間実行したのだろう。横井と異なり、小野田は彼の部下だった島田庄一元伍長(1954年没)や小塚金八元一等兵(1972年没)を島の警察との銃撃戦で失っている。こんな軍事価値が殆どない島で、部下を失ってまで戦いを彼に継続させたものは何だったのだろう?
1951年、赤津勇一元一等兵が投降し、日本に帰国して残留日本兵の存在を国に報告するが、政府はフィリピンの政情の悪さを理由に有効な手立てをとらずに1974年2月を迎えることとなる。
小野田元少尉の伝記によれば、戦争はすでに終っていたことは、知っていたようだ。彼をして30年に及ぶ戦争を継続させたのは、上官の命令だった。彼は失った彼の部下に対する思いや、たとえ自分たちの食糧確保のためとはいえ、島で平穏に暮らす市民の生命や財産に多大の損害を与えたと言う意識は、表向きには語られていないが、きっと、小野田の心の痛みになっているに違いないと筆者は思いたい。
1974年2月、鈴木紀夫と言う若い冒険家が、この島に潜んでいると言われる日本兵を探索にやってきて、小野田と運命的な出会いをする。
小野田は「上官の命令なしにはジャングルを出ない。」と若者に告げた。若者はすぐさま、日本に引き返し、小野田の上官であった谷口元少佐とともにルバング島を訪れ、谷口から小野田は作戦行動の解除命令を受領する。小野田の30年戦争は、1974年3月10日、正式降伏により終了した。
余談であるが、この年の12月、インドネシアの香料群島のひとつであるモロタイ島で日本兵中村輝夫(台湾名 李 光輝)が発見され、台湾に無事帰還を果たすが、その4年後死去している。
小野田は本当に武人だったのだろうか。
このエッセイの冒頭、「陛下の開戦の詔書を読め!」の罵声が小野田から奥村に浴びせられているが、彼は真面目な「天皇崇拝主義者」に違いない。その天皇が、先の戦争は間違っていたとの発言が無い限り、小野田は自己の正当性をこの「詔書」に求め続けるであろう。
僕たちの祖父母、親や兄姉が、先の戦争の直後「もう戦争はコリゴリ」と考えていた筈だが、米、英、蘭、中国と戦えと「開戦の詔書」で言った天皇に対する総括も、この国の国民がしないまま、天皇は1998年 1月に崩御した。
三人の男の数奇な運命は三者三様だ。
横井は1915年、小野田は1922年、奥村は1924年生まれだ。横井はすでに鬼籍に入っており、残る二人も80歳を超える老人だ。三者の思想もまちまちだ。だが、三者とも「戦争は絶対してはならない。」と言う点では、奇妙に一致している。