
母は1900年生まれである。生きていれば今年百七歳になる。晩年は父の故郷の
岐阜で狂俳と俳句に興じた。広辞苑によると「狂俳は濃尾地方などに多く行われる
冠付きの一種」とある。与えられた題に対して、五・七あるいは七・五の十二音で
詠う最短の文芸である。ユーモアと諧謔を特徴としている。
生前の母はボクが帰省した折に短冊に書かれた自分の作品を見せてくれた。当時
ボクは狂俳や俳句には全く興味がなく、母の話をいつも好い加減に聞いていた。
今年の三月、母が狂俳や俳句をやっていたことを思い出し、岐阜の義姉に頼んで
母の作品を送ってもらった。短冊の大束が送られて来た。ところが短冊に書かれた
文字はあまりにも達筆でにわかには読めない。それでもいくつかの句が読解できた。
冠が「カン」の狂俳では次のように詠んでいる。
<赤鉛筆が馬当てる>
「ぼつぼつ」という冠に対しては
<あの娘も年じゃ噂あり> と歌っている。
俳句は野菊という雅号で句会に参加していた。
<ふとさめて夜半の雨音春めきぬ>
朱で天と書いてある。句会で一席を得た句かもしれない。
<芒の穂ばかりに夕日残りけり>
<花霞蝶が日傘の下潜る>
<わくら葉にとりつく蝉のもぬけかな>
母らしい句がつづく。そして、ひとつの短冊を手にしたときボクはハッとした。
<外地より吾子の皈り待つ熟柿かな>
敗戦の年の七月十七日、フィリピンのレイテ島で戦死した長男を母は死ぬまで
待っていた。 兄が戦地から両親あてに送ったハガキの冒頭には和歌が書かれていた。
「ボンボン」と云われし男の子召され征き 敵潜切り抜け意気天を衝く
稚児ありし夕のカルタ会 瞼に画きついざ散り征かむ
おみな等のありし可憐の舞姿 波も調べに船底の夢
鈴蘭の床しき香り胸に秘め 夜半の嵐に散る若桜
甘き露受け咲き競う百合の花 忘るな嵐に散りゆく桜
南海の島守る男の子の思出は 乙女のさへずり「きらい、馬鹿みたい」
姉上としたひし方に稚児桜 幸いあれがしと祈る南海
知る人もなくジャングルに朽ちる身の 御魂ぞ守る大和島根を
兄は第六十八旅団に属していた。兄がレイテ島でどんな運命をたどったのかを知り
たくて、大岡昇平の「レイテ戦記」や山岡荘八の「小説 太平洋戦争」を読んで
みた。しかし第六十八旅団については具体的な記述が少ない。山岡荘八は、「第六十八
旅団の運命については私は書く勇気がない」と告白している。あまりのひどさに文字
に出来なかったにちがいない。そんな中にあっても兄は最後の手紙で、父母のことを
案じ、弟妹のことを気づかっている。
「父上様へ 肩胛リュウマチは如何、在満以来の送金は学資に回してやってください。
母上様 お体を大切に、富美男以下を頼みます。」 そして自分のことは、
「縁談も不要です アッハッハ」
歌人の上田三四二が「短歌(俳句も)は日本語の底荷だ」と言っている。底荷は船が
転覆しないよう船底に積まれる砂利のことである。この底荷のおかげで空載時の船は
転覆することなく航行することが出来る。
上田三四二のこの言葉に接したとき、「歌は人生の底荷である」とボクは思った。作家が書けないという程の過酷な中にあって、兄が二十三年の人生を崩れることなく生きおうせることが出来たのは、兄に和歌があったからではないかと思う。
母には狂俳と俳句があった。ボクは二人の歌とシンフォニーの如く響かせたいと思い、
遅まきながら俳句の勉強を始めた。
兄の星ひとつ加えし天の川
草笛や征きて還らぬ兄のあり
しんかんと母亡きあとの蝉時雨
亡き母の狂俳思ひ盆の月
愛しきもの風花の如ほゝに消ゆ