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 column "peace wind"第24回

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米寿と憲法九条

牧 泉(伊藤忠出身)  

 全生活を平和のためにつかっているといっても過言ではないようなわが母が米寿を迎えました。私事で恐縮ですけれども、今回は母の平和を願う日常を述べてみたいと思いますが、なにとぞ米寿に免じておゆるしください。
 ここ10年の間に作った短歌と俳句の中から気に入った作品を母が選び、それを「折々の歌・俳句」という本に仕立てて、米寿記念に子ども達(私と妹弟)から贈りました。喜寿(77歳)では自分史のようなものをつくり、付録のように俳句集もつけましたので、78歳以降の作品群から編んだものです。
まず、本の扉を飾るものとして母は下の短歌を選びました。

敗戦時 いくたび死線を くぐりしか わが子抱きて 満州の地を

そして短歌の師である碓田登先生は次の歌を感銘深いと言ってくださっています。

名も知らぬ 北の満州 地の果てに わが子を 埋め来しと 若き母泣く

 1920年生まれの母は1942年桜の頃に21歳で結婚するとすぐに満州にわたり、翌年には私を出産しました。見合いのために満州より帰国した父と一度あっただけで結婚式を迎えたというのですから驚かされますが、当時はそんなものよと母は平然と言います。それでも仲良く4年ほどの穏やかな新婚生活をおくることができたのですが、敗戦後は1年間ほど難民生活をおくり、ようやく1946年8月にリュック一つ背負い娘を連れて引き揚げてきました。この敗戦・引揚体験が50年を経てもなお強烈なものとして残っているのでしょう。そして戦後の母の生き方の原点となってもいるのです。

 2005年5月にはニューヨークで開催された核不拡散・反核集会に参加し、はじめて短歌を作りました。85歳でしたから、参加者のなかで2番目に高齢だったそうです。このときに知り合った方から勧められて、短歌をつくりはじめたのです。

力強く 共に歩めり ニューヨーク 平和を願う 八十路のわれも

 短歌とちがって俳句は長年親しんでいました。たぶん祖父の影響が大きかったのだと思います。喜寿の本に掲載した俳句のなかから子ども達と孫たちが「お気に入り15句」を選んで、今回の「折々の歌・俳句」にも付録のように付けてみました。基準を決めず勝手に選ばせたのですが、面白いもので、かなり重複するものがあり、またそれぞれ自分に関係のある句を選ぶという傾向も共通していました。その結果、もっとも人気を得た句は次の2句です。

その昔 ペチカも夫つまも 吾にあり
	拗ねてみて 今宵は揉まず 妻夜長

 若後家となった母でしたけれども、毎日明るく下宿屋のおばさんとして過ごしているように見えていましたから、その頃の母の心の底にあるものを子どもたちは久しく気づくことができませんでした。42歳という若さで脳溢血に倒れた父を、母は十年間毎晩足を揉み続けていたのです。
 十年父を自宅で看病し見送ったのち少し生活が落ち着くと、母は驚くほど積極的に海外に出かけるようになりました。最初の旅はアウシュビッツを目指しました。その途中で寄ったポーランドの古都クラコフでの句です。冬の東欧を和服で通した初めての海外旅行でした。そして次々と世界中に飛び立ちます。

クラコフの 古城は黙し 粉雪舞う 
秋灯や 祝わるウィーンで バースデー 
スペインは 絵の国冬の 白い家 
リス走る セントラルパーク 若葉かな 
名も知らぬ 木の実や花や コスタリカ

元気いっぱいのように見える母にも子ども達は時々心配をかけてしまいます。

 母の日に 便りなき子を 思いけり 

独りありて 嫁ゆきし娘こ思ふ 春炬燵 

かなしい日 風鈴さげても かなしい日 
弱音をば はくまいものよ 秋の蝉

 そうは言いつつも長くはへこたれていません。平和を守るためには黙っていたり、じっとしていることが出来ないのです。

 戦争の 悲しみ深し 盆の月 
廻りくる 広島・長崎 夾竹桃 
核廃絶 署名に立てり 街薄着 
なぜ止まぬ 戦のニュース 寒の雨

 幸いにも丈夫な体を授かって、88歳の今年のクリスマス・ダンスパーティでも、ワルツを踊ります。米寿をラストダンスにすると言っていたのですが、この具合なら90歳までは大丈夫そうだというのが今日現在の母の言葉です。

 若き師と ワルツのステップ 踊り初め 
ダンスシューズ さげて家路や アマリリス

1920年生まれの母の日々に最後までお付き合い戴きまして、ありがとうございます。

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