
今年は空梅雨になりそうで、お米はどうだろう、野菜は値上がりするかしらと心配になります。それでも変わらず今年も紫陽花が咲いています。父は私が伊藤忠に就職した年に52歳で亡くなりました。そのとき妹は18歳、弟は中学2年生でした。キリスト教会での告別式では、牧師さんが父の長くない人生を語ってくださいました。幼くして両親を亡くし苦学して夜間大学を卒業したこと、卒業後は満州で農地開発の仕事に全力投球していたが、敗戦で全てを失いリュック一つで日本に帰ってきたこと、敗戦後の混乱と就職難の時代にようやく見つけた名もない会社で小さな安定を得た42歳のとき、最初の脳溢血の発作があったことなどなど・・・。そのお話が私の耳に注がれ、柩の傍らに立つ私は涙があふれてきたのですけれど、心のどこかでほっとしていました。あぁこれで母が病いに倒れずに済むと思っていたのです。それまでに10年近い看病の日々が母には続いていたからです。
そんな23歳の薄情で不謹慎な娘でしたが、火葬場で父の煙を見上げながら立った私の目に焼きついた紫陽花を忘れることができません。広い庭の到る所に紫陽花が咲いていました。もの哀しい紫色でした。それから毎年、梅雨になると、我が家の小さな庭に寂しげな額アジサイが咲き、隣家には華やかな大輪の紫陽花が咲き、その紫陽花たちに会うたびに父を思い出します。
とうに還暦を過ぎた娘は、今頃になって父の死が早すぎたのだということを思います。生意気盛りの20歳のころ、私は父に日本帝国は満州を侵略したのだと断言しました。父は、もう左半身が不随でしたが、電気のない満州の荒野に電気をひいて農地に変えたのだよと言いましたが、それ以上は言葉をつなぐことはしませんでした。でも、父の握った拳が震えていたことを覚えています。
もうすこし私が齢を経ていたら、もっと別の話し方ができただろう。たくさん父から話を聞きたい、いえ聞かなければならないことがあっただろうに、どうしても寡黙な父とは話がつづかなかったのです。中学の頃から昼は働き、夜に学んで、ようやく大学を卒業した父には有力な親類縁者もなかったと思われます。満州にしか就職口がなかったのかもしれません。それは父のせいだったのだろうか。戦後は会社も貯金もなくなり、無一文から人生をやり直さなければならなかった苦労が父に早い死をもたらしたのですから、父は戦争の被害者だともいえます。でも、私は日本の加害のことについて、あの時代に青年期を過ごした父ともっと話したかったと、今ごろになった痛切に思います。たぶん父も娘には分ってもらいたいことがあったに違いないとも思います。
紫陽花は、こんなやるせない想いを年々歳々私に強く抱かせます。
そして、46歳で寡婦となった母は87歳の現在まで、平和のためであれば疲れも忘れて朝から晩まで動き回っています。85歳のときはニューヨークの反核集会に出かけていきました。非核不戦の憲法を持っている国と聞いてコスタリカに出かけていったのは、その前の年でした。地元の九条の会の活動にも全力投球をしている母は、過去の苦労を多くを語りませんが、折に触れ、石井百代さんの短歌を短冊に書いて飾ったり、書道のお弟子さんに渡したりしています。
徴兵は命をかけても阻むべし
母、祖母、おみな牢に満つるとも (石井百代)
この歌は1976年9月18日付朝日新聞「朝日歌壇」に掲載されたものです。石井さんが75歳のときの作品です。そのときの福田赳夫首相が有事立法の研究を指示した情勢のもとで詠まれました。
気持ちにぴったりくる歌なのでしょう。母は敗戦後1年間を満州の収容所などで暮らし、3歳の私をつれて苦労して引き揚げ船で帰ってきたとき以来、戦争は絶対にダメだ、他国へ侵略してはダメだと体に沁み込んでいるかのように、今日も地を這うように動き回っています。