商社九条の会・東京
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活動の記録

講演記録

「小さな人間」について (あらまし)
はじめに~なぜ講師を引き受けたか

  皆さん、今日は。澤地久枝です。今日は年末の土曜日。今夜は雪が降るかもしれない。そんな寒い天気のなか、何人集まるか、100人いらっしゃればいい方だなと思って私はここに伺いました。でも本当にたくさん集まって下さってうれしいです。(盛大な拍手)
 正直に言っておいたほうがいいと思いますが、最初、「商社9条の会」の者ですがといって、講演依頼の電話が掛かってきたとき、"しょうしゃ"という言葉で浮かんだのは「瀟洒な佇まい」の瀟洒という言葉でした(笑い)。そうではなく、あの商社、資本主義の中核の商社だと聞き、まず気持ちがすっと後ろに引けました。でも、商社に九条の会があるということは何てすばらしいことだと思いました。私が最初尻込みしたように、参加している人たちは、それぞれ職場とか、定年退職後―そうは言っても縁が切れているわけではありませんから―の生活、環境のなかで、9条の会に加わることについては(逡巡したうえ)、やっぱりどこかで踏み切って、一歩踏み出してやっているのに違いない。そうだとしたら、せっかく招いてくれたのだから、行かないのは申し訳ない。そう思って、今日来ることになりました。(盛大な拍手)
 12月はなんと6回も話をしなければならなくて、今日がその6回目で最後です。(中略)今週に入って体調があまり芳しくなくて、主治医からは「安静に出来ませんか、無理すると心不全になるかも」と言われたのですが、それを振り切って今日ここに来ました。来て良かったと思います。こういう会に皆が集まるということは自分が励まされるだけでなく、お互いが他人に対して励ましを与える、力を与えることになります。私たちは決して多数派ではないのだから皆で力を寄せ合って生きていかなければならない。いよいよ正念場という感じの2007年の暮れになりました。

ブエノスアイレスからの手紙

 先ず初めに小田実さんに宛てて書いた手紙を紹介します。彼にこの手紙が伝わっているかどうか確認できていないのですが、今日、初めて公にするものです。
 「小田実様、ブエノスアイレスに本日5月31日入港。留守宅から初めてのメールで、"筆洗"、~新聞のコラムです~、が送られて来て、ご入院を知りました(4月2日に横浜出港。今日まで60日間隔離状態で7月14日に帰国の予定)。貴方がかけがえのない人であることを改めて思います。癌なんぞに負けないで下さい。人は生きていれば病みます。(中略)病気と上手く共存して生きる道は、それしかないのかもしれない。元気になってください。私は心臓を開く手術を3回やって、今は人工弁、ペースメーカー付きの人生です。第1回オペから48年経ちました。まだ生きていてスエズ運河を通過、これからパナマ運河を目指します。(中略)。日本の、世界の明日の為に、小田さんは元気でいてくれないと困ります。誰も代われないのです。われら少数派のためにだけではなくて・・・。休暇は悪くはありません。休むことも大切です。休んで文章を書いてください。」

  こういう文章をパシフィック・ビーナスという客船の上で書き、ファックスで小田さんの自宅宛てに送りました。これが無事に着いたか、そして着いたとしても、彼には届かなかったかもしれません。5月31日という日付はそろそろ小田さんの意識が混濁して誰にも会わなくなるというぎりぎりのタイミングですから・・・。でも、どうも取り返しのつかないような状態に小田さんはあるらしいということをブエノスアイレスで初めて知ったのです。そして祈りました。癌でも何とか生き延びてもらいたいと、そう思ってこの手紙を書きました。

小田実氏を悼む

 小田さんは、参議院選挙の結果、与党が敗北するという見通しが立ったのを見届けるように、7月31日の午前2時に亡くなりました。75歳という歳は、決して年齢不足とか若いとか言うことはできないのですけれども、小田さんが生きてきた戦後の人生・歩みというものを考えると、あの人は今まさに傍にいてほしい人。動けなくても、「小田さん、どう思う」と訊けば、彼は必ず的確に具体的な答をくれました。「自分は、もうデモに出ることも、集会で話すことも出来ないけれども、書くことは出来る、それから話すことは出来る。だから、これからは著作に専念する」と思いを込めていらしたけれども、その時間は一ヶ月なかった。スキルス性の胃癌だそうです。私は小田さんに随分多くの負担を掛けたということでも後悔をしました。
 私自身はことし喜寿ということで77歳になったのですが、自分で自分を祝ってやろうと、ワールド・クルージングということで船に乗ったのです。こんなことが起きると(前もって)知っていたら勿論乗らなかったのですけど、費用もなんとか払えるくらいの金額でしたし、スエズ運河とパナマ運河に行きたいから、「病気しながらも、よくここまで生きてきたなぁ、お前さん、よくやったよ」と自分に褒美をやるつもりで、4月2日に船に乗ったのです。それからまったく何のニュースも来ない状態を過ごして、小田さんにこのFaxを送ってからも更に日にちを重ねて、7月14日に、(日本に)帰って来ました。
 帰ってきて先ず一番気になったのは小田さんのことでした。それで7月18日に聖路加国際病院に入院している小田さんの病室に行きました。前に会ったことがあったので、わたくしは小田さんが「人生の同行者」と呼ぶ玄(ヒョン)順恵(スンヘ)さんという在日の女性を知っていました。ドアをノックして病室に入っていった時、そこにもの凄く痩せた人が居たので、「あなた、玄(ヒョン)さんのお姉さんですか」と訊いたら、「いえ、玄(ヒョン)順恵(スンヘ)です」と言うのです。二人で抱き合って泣いてしまいました。それぐらい玄(ヒョン)さんはやつれ果てていました。小田さんは眼を半眼に閉じ、そして酸素吸入、首のところから栄養剤を補給して、何も飲食ができないような状態でベッドに横たわっていました。(中略)私が小田さんに「小田さん、ありがとう、あなたは立派よ」と言いました。「あなたは立派だった」と、過去形では言うまいと私は思っていたのです。その時、奇跡が起きてほしいと願っていましたから。感謝と、あの人がどんなに立派な人生を生きたかということを言わずにいられないということがあって、そういうことを言いました。
 さっき、正念場という強い言葉を使いましたけれども、みんなそれぞれが色んな役割を背中に背負って生きてきているのです。
 話は逸れますが、戦争に負けたとき、わたしは満14歳でした。さっきの「死んだ兵士の残したものは」という素晴らしい詩を書いた谷川俊太郎さんは私より若い。だから彼は戦争なんぞ知らないといえる若い年齢で敗戦を迎えています。でも、あんなに素晴らしい詩を書いている。"戦争は終わっても悲しみはずっと残る"という言葉を思い出しながら私は聴いていました。
 だから何年生まれだから戦争は解らないということではないんですね。解ろうとすれば解るし、解る努力をしなくてはならない。それぞれがそれぞれの役割を果して行かなければならない。

私は狼女のように「日本の針路が危ない」と叫んできた

 私は自分の戦後を振り返って、イソップ物語の「狼と少年」を思い出します。「狼が来た、狼が来た」と繰返すあの少年は、仕事が辛いから言ったのですね。村人が「さあ、大変だ」と来てみると狼はいない。それを2~3回繰返しました。しかし、ある日、本当に狼が来たのですね。少年は「狼が来たぁ」と大きな声で叫んだことでしょうね。でも、村人たちは「また、あいつは嘘をついている」と誰も助けに来なかった。それで少年は狼に食われて死んでしまった、という話です。
 私は、まるで狼少年ならぬ、狼女みたいに「日本の針路が危ない、危ない」とずうっと思ってきました。私は物書きになってからまだ35年ぐらいしか経っていませんが、その前の人生においても私はいつもそういう気持ちを持って生きて来た、と思います。いつから私がこう思うようになったのか、と振り返ってみたら、昭和24年、1949年頃から危ないと思い出すのですね。1950年、昭和25年6月25日に朝鮮で戦争が起きました。その前から、日本の国内ではレッドパージ、つまり共産党員を追放することが始まり、赤は怖いというキャンペーンが非常に強くなり、なんとなく国中がきな臭くなってきました。
 その頃は占領下ですからマッカーサーが政治上では一番偉かった。6月25日に朝鮮戦争が起きる。そして直ぐ後に、マッカーサーの命令で共産党の機関紙「アカハタ」が30日間の発行停止処分を受ける。7月8日にマッカーサーの指令、~これは占領下では命令と考えた方がいい~、当時の総理大臣である吉田茂に警察予備隊を作りなさいと言う命令が降りるのです。7万5千人の国家警察予備隊の創設、それだけでなく、海上保安庁をもっと拡充せよ、8千人増員せよ、という命令がくる。これが現在に続く自衛隊。つまり日本が憲法で、武力をもたない、国の交戦権もいっさいを封印したあとに、新たに軍隊を持て、ということになり、持つことになった。年表を見ていくと、警察予備隊は軍隊でないという論議があるけれども、あっという間に警察予備隊が保安隊になり保安庁ができ、保安隊が自衛隊になり防衛庁ができるというふうに変わって来ました。そしてじわじわと拡がっていって、気がついてみたら、日本は世界で2位か、3位かという防衛力をもつ国になっているじゃありませんか。
 まだ10代の終わりくらいであった私は、なんか変だなぁと思った。それが取り越し苦労で済めばよかったのだが、おかしいなぁと思っていたことがどんどん急角度に曲がっていって、自衛隊が最初に(外へ)出て行ったのがカンボジアでした。これは自衛隊が海外へ出たという既成事実を作ったという点で大きなことだったと思います。

アメリカの政治を狂わせた9.11事件

 2001年9月11日の事件の後で、ブッシュ大統領が「これは戦争だ」といい、「正義のために、報復のために、我々は戦う」といって、まずはアフガニスタンを攻撃しました。そしてイラクに全面的に戦争を仕掛けた時、小泉さんはさっさとアメリカに行って、主権者である日本の私たちに賛成か反対かを問いもしないで、一緒にやりますと勝手に約束し、自衛隊はイラクへ出て行った。現在、テロ対策特措法は、参議院選挙で与野党の議席が逆転したため、11月1日で期限切れになり、海上自衛隊の補給艦はインド洋から帰ってきた。またイラク特措法でイラクのサマーワに出ていた自衛隊も引いた。しかし航空自衛隊はまだ出ている。飛行機でアメリカの兵員や武器・食料その他を運ぶ仕事をやっている。
 アメリカの政治が同時多発テロで狂った。アメリカ市民もそれに巻き込まれてしまった。「そうではない、テロに対して戦争という手段では絶対に解決できない、だから考えようではないか」というようなことを公に言うと、あのアメリカでさえ「お前は非国民だ」と言われた。愛国法という法律が9.11事件を契機にできて今も残っている。
 本当に相手のためを思うのが同盟国のあり方であるならば、日本はアメリカに対して「ちょっと待ってくれ。同時多発テロのダメージは分る。ショックも分る。けれども、今ここでテロリストに戦争を仕掛けることから、何もいい答えは生まれない、泥沼しかない」と言うべきでした。

謀略で始まった15年戦争とその結末

 第二次世界大戦で、15年戦争ともいわれる日中戦争で、日本は中国に勝つことが出来なかった。日本は、昭和6年(1931年)秋に、日本の現役軍人それも高級参謀たちが陰謀を仕組み、中国軍に攻められたという口実で中国への侵略を始めた。こうして始まった中国への侵略は、満州国を作るということで一回収まるけれども、その後、昭和12年(1937年)の七夕の日、7月7日に、誰かが殺されたというのではなく、北京郊外の盧溝橋で銃声が聞こえたということで(日本軍は)全面的な戦争行為に入った。
 日本は宣戦布告もなく対中国戦争を始めた。日本の陸軍大将など偉い軍人たちは中国を馬鹿にしていたから、1年か2年攻めていけば、中国は手を挙げるだろうとは思っていた。しかし、中国は最後まで手を挙げなった。だから日本が(戦争に)負け、ポツダム宣言を受諾するとき、相手はアメリカであり、イギリスであり、その他のヨーロッパの国々であると同時に中国だった。中国はいろんな困難に耐え抜いて最後まで手を挙げなかった。
 日本の軍隊が(対中国戦争で)一番困ったのは、中核的な大きな軍隊との正面戦争ではなく、いろんな所に出没するゲリラとの戦いだった。北京の郊外まで共産系のゲリラが出てきて、日本軍は点と線しか確保できない。もう一つ大きいことは、中国で勝てないから、中国戦線にある軍隊を南方の広がった戦闘区域にもっていくことができないことでした。勢力が分散される事態となり、日本が負けざるを得ないような状況になっていった。

日本の戦争はアジア解放のためだったか

 日本がなぜ戦争をしたかというと、今になると(あの)戦争はアジアの解放のためであったと、真面目にいう学者がいます。日本が攻め入って、そこを支配していたフランスとか、イギリスとか、オランダとか、アメリカとかを追い払うようなことが有ったかも知れない。そして、結果的に植民地であった国々が独立したということは有ったかもしれない。けれど、そこを占領した日本がその国々の自立を容認し独立させたかというと、それは無かった。アジアを本当に独立させる気持ちが日本の政治家にあれば、1910年から続いている朝鮮半島での植民地支配をまず止めて、台湾とか朝鮮半島を独立させるべきだった。八紘一宇、世界をひとつの家にする、その中心に日本がいるのだ、ということでやった戦争だったが、事実はそれを裏付けていない。そして勝てなかった。そんな戦争だった。

憲法は押し付けられたか

 戦争で、日本中が大変な爆撃にさらされて、街は破壊され、焼き尽くされ、多くの人が死にました。更に、とどめのように2発の原爆も落とされました。私は4歳で満州に行き、満州で終戦を迎え、1年間の難民生活を送ったあと日本に帰ってきました。私が生まれた場所は東京の原宿で、神宮球場の近くでした。昭和22年秋に東京に帰り着いて神宮球場を背中にした時、まっすぐ富士山の裾野が見えるぐらい何にもなかった。完全な焼け跡だった。残っていたのは、ぽつんぽつんといくつかの建物とお蔵だけ、あとは完全な焼け野原でした。そこに人々が地面に這いつくように暮らしていました。
 ポツダム宣言を受諾した結果、日本の軍隊は全面的に武装解除され、日本には1人も軍人がいない状態になった。昭和22年に憲法がつくられ、施行されました。
 多くの男たちが出征し、還って来ませんでした。後に残された親とか妻、子供たちがどうやって生き延びてゆくのか、その生き延びていく道が何にも講じられていませんでした。食べるものもなく、栄養失調で大勢の日本人が病気になったり、死んだりしました。
 あの時代に、もう一回軍隊をつくって、兵隊を養成して、どこかに攻めて行こうとか、或いは攻めてくる国があったらそれと戦おうなどと思った人は1人もいなかったと思う。戦争のための用意よりも、なんとかきょう食べて生き延びたい、明日この子を飢え死にさせたくないという思いでみんな一生懸命生きていました。
 今の憲法は押し付けだという人がいるが、実際はそうではない。日本側の心ある人たちがつくった憲法であり、またマッカーサー司令部との間の合議もありました。
 日本側の政治家たちがつくった憲法草案は明治憲法とほとんど変わらない保守的なものだった。そう判断したのはアメリカだけではない。その案では連合諸国の人たちを納得させることも出来なかっただろう。日本が再び軍国主義をかかげ、近隣諸国に迷惑をかけるようなことはあってはならない。そういう軍隊を二度と持つことがないようにする、そういうことがポツダム宣言のなかにはっきり書かれている。連合諸国は日本が再び軍隊を持つことを絶対認めたくないと考えていました。それは、多くの国々が日本から攻撃されて酷い目にあっていたからです。日本人が苦しんだ以上に苦しみ、そして痛手を受けた人たちがいたからです。そういう認識の上に立って、日本に対する大きな規制があったと思う。
 勝った国からの強制によって、武器を棄て、交戦権を放棄したということではなくて、日本にも、それ以外に戦後を生きのびる道がないという判断が常識として拡がっていたからだと思います。
 10代の終わりに差し掛っていた私にとって、そんなことは当たり前のことでした。女学校の教師が「新しい憲法ができた、天皇は象徴になる」と非常に言い難そうに憲法の話をしました。話をしている教師の方が自信無さそうでした。生徒から、「なぜ」と問われたら困ると先生が非常に怯えているのが良くわかった。私はそのとき、なぜ先生が象徴ということを説明するのにこんなに怖がるのかと思いました。何とかこれを認めてくれというのが教師たちの姿勢だった。国民にとっては戦後の日本が平和路線で行くのは当たり前でした。
 今の憲法は日本語としても不自然だ。だから変えなければならないと大真面目で言う人がいます。日本語として不自然かどうかは別にして、普通の、常識的な日本語の解釈で考えたら、憲法の前文も9条の1項・2項、どれを見ても、自衛のためなら戦力を持つことは違憲ではないだとか、或いは交戦権を持つことも規制範囲外だという解釈判断は出てきません。今しきりにこんなことを言う人たちは政治的な判断をすることで日本語の枠を広げようとしているのです。

既成事実としての自衛隊にどう向き合うか

 ただ、人間というのは既成事実に非常に弱いものです。私は、「狼がくる」と思って、自分の姿勢を変えないで生きてきましたが、「もう既にあんなに強い軍隊ができているじゃないか。今更、憲法9条違反だというのは現実認識錯誤も甚だしい」という人がいます。
 だけど、そもそも国民にウソをつき、だんだん強くなってきた自衛隊という名の軍隊をどうするか、ということは、今、私たちが直面している一番大きな問題です。
 軍事力を持つということは普通の市民生活を犠牲にしなければ成り立たない。アメリカだって経済的に困っている。アメリカは、イラクでの戦争だけでなく、第二次大戦が終わった後で、いくつも大きな戦争をやって、そのために大きな軍事費を使ってきた。誰も頼んでいないのに、アメリカは軍事力で世界をコントロールしようとしている。
 最近、日本は、弾道ミサイル防衛ということで、北朝鮮がミサイルを撃ってきたらそれを察知し、邀撃(ようげき)して打ち落とすというBMDシステムをつくろうとしています。(それには)1兆円ぐらいの費用がかかる。このBMDシステムというのは、うまくいくとは思えない、成果が上がるかどうかもわからないということで、その開発にアメリカ国内でも疑問がでている国防システムです。日本には平和憲法があり9条があるのに、なぜアメリカと一緒になって邀撃(ようげき)ミサイルの開発をやらなくてはならないのでしょうか、政治家は説明できません。
 しかし政治家はちゃんと説明しないで、既成事実を次々と作ってきました。イラクでもし戦死者が出ていたら、これを見殺しにするのかということで世論の反対を押切ろうと考えていたと思います。イラクでは幸いなことに、燃料補給艦で病気と自殺で3人の自衛官が死んだだけで、戦死という形で死んだ人は一人もでませんでした。テロと隣り合わせで地上に出ていた自衛隊に戦死者が一人、二人でていたら、それをきっかけに日本は凄く悪く変わるだろうと懼れていましたが、幸いにも、いまのところ戦死者は出ていません。
 テロ特措法の延長が認められずにいる。それはなぜか。参議院選挙で有権者がどうもおかしいと思って与党に投票しなかったからです。野党が勝って、ねじれ現象といわれる事態をつくった。衆議院では恐ろしいことに小泉与党(自民党・公明党)に3分の2以上の議席を与えた。だから、衆議院で(政府与党)はやりたい放題のことができるようになっています。ところが衆議院で可決されても、参議院で否決する。臨時国会の会期はさらに延長され、1月15日まで臨時国会は続く。政府与党は、なにがなんでも、新テロ特措法を通そうとしています。

予算の使われ方はこれで良いのか

 年金生活者の生活が圧迫されてきていませんか。年金支給の前途が危ない。役所はいったい何をやっているのか。支給される年金が危ない。同時に年金から差し引かれる介護保険料とか、健康保険料が上がってきた。私自身のことを言えば、私は後期高齢者ということで、来年、健康保険料が上がるらしい。私は今年8月1日から医療費の負担が1割から3割になった。私は老年である上に1級の障害者だから、医療費負担が1割から3割負担になったのは応えます。
 生活保護が切り詰められ、学校に対する補助金なども切り詰められ、あれもこれも切り詰められています。生活が困窮して納税義務が果せなくても、生活保護を受ける権利、生存権は守られるということは憲法で当然のこととして認められています。それを無視して人々の生活を守るために使わなくてはならないお金をどんどん削ろうとしている。そのお金を何に使うのでしょうか。
 2007年の防衛費予算は4兆8千億円。来年はもっと増える。このなかには米軍基地のための思いやり予算(2千億円強)は含まれていませんから、5兆円というのは莫大なお金です。5兆円という莫大なお金を、本来あってはならない自衛隊のためになんで使わなければならないのでしょうか。
 私が仮にファナチックな国粋主義者で、軍隊を持たない独立国家なんてないという意見の持ち主であったとしても、自衛隊は日本独自の軍隊ではありません。アメリカは各州に軍事力を持っていますが、United Statesとしての最終的な指揮者は誰かというと大統領です。自衛隊はいろいろな名目で海外に出て行っていますが、日本の自衛隊は、アメリカの戦略の下に、アメリカの作戦系統に組み込まれて、アメリカ大統領の指揮下に入って闘う軍隊です。むろん、それから離れて独自に闘う軍隊であればよいと言っているわけではありませんが、私がゴリゴリの国粋主義者でなくても、こんな軍隊はおかしいでしょう。自衛隊は自分たち日本国民が本当に必要だということでもつ軍隊ではない。決定権をもたない軍隊をなぜ持たなければならないのでしょうか。

安倍前首相はなぜ辞任したか

 とっても汚い言葉だけれども、安倍さんという総理大臣は野垂れ死にしたと思います。何故か。彼は参議院選挙に絶対負ける訳にはいかなかった。でも負けてしまった。彼はブッシュ大統領に会って、「テロ特措法を延長してインド洋での給油活動を続けます、アメリカを支持します」と約束して帰って来たに違いない。そうでなければ、彼は野垂れ死にすることはなかったと思う。オーストラリアのハワード首相とも約束した。本当は有権者である日本人との約束において縛られなくてはならないのに、日本人との約束には縛られない。それだけ日本の有権者はなめられている。日本の総理大臣を縛っているものは何かといえば、軍事同盟である日米安保条約とそれを担っているアメリカ大統領との約束、~総理大臣としての約束というよりも安倍個人の約束~、だったと思う。参議院で勝てなかったから、板ばさみにあって、ノイローゼになって辞めたのだと思います。

参院選挙での与野党逆転はなぜ起きたか

 テレビを観ていたら、フィクサーと言われているオールド・ジャーナリストが、ニヤニヤしながら、「本当のことは言えない。死ぬまで封印しておく」と言っていたけれども、「大連立を持ちかけたのは野党の党首の側である」とはっきり言っていました。これから先のことは判らないが、福田、小沢大連立構想が出て来たとき、小沢さんは狂ったのかと思いました。参院選挙は小沢さんが魅力的で勝ったのではない。民主党に希望を託したから民主党が多数を占めたのでもない。何が参院議員選挙で起きたかというと、ここで日本の進もうとしている道にわれわれは反対だ、ノーだと言わなかったら、日本は酷いことになる、われわれの生活がどんなに脅かされるかわからない、もう黙っていられない、小泉政権から始まって、人々の生活の無視する政治の継続に対して賛成できない、反対だということを言ってやらなくてはならない、そう思った有権者がたくさんいたから参議院で逆転がおきたのだと思います。だから、小沢さんは自惚れることはなかったし、衆議院でどうなるか分からないと憂えることもなかった。衆議院で確実に勝つ道はあります。それは何かというと、今の与党がやっている政治に対してはっきり「われわれは賛成できない、反対する。だから、新テロ特措法にも反対である。自衛隊をこれ以上強くすることにも反対。憲法を変えることにも反対である」、「与党がこれまでやってきたことに反対である」と選挙のときにいえば、有権者は納得します。「そうか、それであれば貴方たちの党に、あるいは貴方たちの党の候補者に投票しよう」ということになる。「われわれは反対である」ということは、アメリカを敵に回すことになるかも知れない。小沢さんはそれが怖かったのかもしれない。もっと自信を持ってください、政治家なんだから。小沢さんは政治が見えなかったのかもしれない。なぜ参議院選挙で勝てたのか分らなかったのかもしれない。小沢さんにちゃんと説明してくれるブレーンがいたら良かったですね。
 "大連立なんてとんでもない。これから民主党が伸びていくには、自民党、あるいは小泉・安倍と続いて来た路線、保守政治が掲げてきたものにはっきり対決姿勢を打ち出すこと以外に有権者の支持を得る道はない。一時的にはブッシュのアメリカとの間で齟齬をきたすことかもしれない。でも、長い目でみれば、アメリカの有権者、市民との間で友好関係が成立する唯一の道だ。我々は孤立するかもしれないけれども怖がらないで行こう。このことが政権奪取する唯一の道だ〟というブレーンが何故いなかったのでしょうか。

小さな人間が動かなければ政治は変わらない

 小田実さんが最後に到達したのは、「市民というのは小さな人間だ。市民が動かなければ政治は変わらない。一人ひとりの小さな人間には小さな力しかない。大きな人間は大きな力をもっていて、これが政治とか経済あるいは文化というものを牛耳っている。だけど、この大きな人間の大きな力を変えていく、その力はどこにあるかといったら、小さな人間の小さな力が寄り集まって変えていく以外に変えようがない。小さな人間がいま一番大事にしなければならないのは憲法を守ることだ」、ということでした。

小田実が遺した最後の言葉と平和主義憲法

 小田さんは、わが娘が可愛いと思うのと同時に日本の未来のことを考えていました。
 「日本はもっと価値ある国だと思う。もっとみんなが誇りを持つ、それだけの価値ある国だとおもう。それはなぜか。自由と民主主義は占領軍からもらったものかもしれないが、そこに更に、戦後60年余りの間に、平和主義というものを付け加えたではないか。それは世界に向かって、世界の未来の先取りをしたものとして、われわれは誇りをもってやっていかなければならない。そういうものである」と彼は言いました。
 そして彼が出ない声を振り絞って最後に言ったことは「日本は、明治革命の後に、よせばいいのに富国強兵などという間違った道に踏み込んでしまった。そして戦争に負けて、で・・・、~ここで彼は絶句したのですが~、しかし憲法が残った。その憲法を守って未来を切り拓こうとしている」という言葉でした。
 彼は文学者としてあらゆる力を振り絞って作品を書くと同時に、市民運動家としていつも運動の最前列にいた。これをやろうじゃないかという時には、呼掛け人の一人に名前をおき、デモをやろうじゃないかという時には、大きなカバンを持ってデモの最前列にいつもいた。そのカバンの中には書きかけの小説の原稿がいつも入っていました。小田さんはそういう人です。
 「ここまで自分は頑張って来た。しかし、自分の命はもう数えるほどしか残されていない。日本の明日は、未来はどうなるか・・・」、~小田さんの胸にこみ上げてくるものがあったと思う。小田さんは、そこで絶句しました~、それから、「世界中が世直しを必要としている」という意味のことを言いました。これが彼の残した最後の声だったと思います。

日本も世直しが必要、しかし時間も必要

 日本も世直しが必要です、革命なんてことは言わないけれども。もう少し、まともに生きている人たちの気持ちがまっすぐ受け入れられるような世の中にしたい。それは今生きている私たちのためでもあり、同時に未来を生きる人たち、~日本人だけでなく、国境を越えて~、(のためでもある。)未来の地球人のために、もっとましな世の中にしておかなければ、死ぬに死ねないじゃないですか、一生懸命みんなで苦労して、戦後の社会を生きてきたのに。
 しかし、いっぺんに大きなことをやろうとしてもそれは無理です。小田さんも色んな会合に出て行かれて、その会合の一つで出た質問に答えて、こう言っています。「市民の運動がどれだけ盛んになっても、明日全部片付いているというわけにはいかんのだよ」と。
 (日本は)62年掛かってここまできました。それも、独裁的な政治家によって問答無用で押し付けられたのではなく、少なくとも合法的な選挙があり、それを繰り返し行って。今の政権が非常に悪いとしたら、それがどこから来たかと辿っていくと、もう政治はだめだと思って投票に行かなかった大勢の人、~国政選挙で3割を切っている選挙が珍しくない~、がいるように、政治的無関心が広まってしまったことです。
 それは日本の政治を牛耳ってきた人たちに大きな責任があります、人々が望んでいるようなちゃんとした答を出さなかったのですから。

小さな国でいい

 平和で人間らしい生活をして行こう。商社関係の人には困るかもしれないけれど、小さな国でいいじゃないですか。日本は世界有数の国で、品物を輸出したり、輸入するだけじゃなく、この経済大国になったノウハウを持って行って教えてやろう、いつも先生でいたいと思っている人がいるかもしれない。でも、いつまでも先生でいなくてもいいじゃないですか。
 例えば中国という国は、ご存知の通り、すごい人口を抱えていて、今一生懸命走っています。中国が日本を追い越したっていいじゃないですか。どうぞ、どうぞと(道を譲って)たらいいと私は思います。日本の国土は小さい。それ相応の小さな国になってもいいじゃないですか。しかし、内容が実に充実していて、どこの国にも迷惑をかけない国、国民が豊かな暮らしをしていて、世界中から、あの国はいいなと思われる国、もし理想をもとめるとしたら日本のような国がいいなと思われる国になったらいいと思います。分相応ということがあるが、倹しくても豊かに生きることを捜してやっていけば、何も世界で冠たる大国である必要はないと思います。
 軍事大国のアメリカにくっついて行って、アメリカ大統領の忠犬ポチ、~イギリスのブレア首相はプードルと呼ばれたそうですが~、にならなくてもいいのではないでしょうか。日本は日本として独自に生きて行く道を探す。それが日本の世直しだと思います。日本がまともな国になるべく、世直しすることは、よその国にとってもいいことです。

日本の対決姿勢は北朝鮮にどう映るか

 私は北朝鮮の味方ではないし、今の北朝鮮の政治代表は、はっきり言って、嫌いです。世襲制の社会主義というのは形容矛盾だと思う。しかし、北朝鮮の立場に立って考えてみてください。
 あの恐ろしい同時多発テロが起きたあと、ブッシュ大統領は北朝鮮、イラク、イランを名指しで「三つの悪の枢軸」といいました。枢軸、久し振りに聞く言葉です。昔、なんて言われたかというと、日独伊三国枢軸。これファッシズムの3国でした。久し振りにいやな言葉が蘇って来た。そして、イラクはアメリカに攻められました。
 イランは非常に恐怖ですよね、アメリカが今度はイランを攻めてくるかもしれないと。最近のブッシュ大統領の論調を見ていると、(イラクが)高いものについて困っています。どんどん人気も落ちて30%を割っている。なろうことなら日本に肩代わりしてもらいたい位だ。
 そういう世界情勢の中で、北朝鮮から発射されるかも知れないミサイルを邀(むか)え撃つと言うことで、日本はミサイル防衛開発をアメリカと共同で公然と進め、そのための兵器が各地に据え付けられようとしています。マスコミの論調をみていると、ちょっと静かになったかなと思うとまた拉致問題(を蒸し返す)。もちろん拉致は不当なことであり、拉致された人たちは無事に帰って来なくてはなりません。でも、日本は、拉致問題を理由にして話し合いのテーブルに着こうとしない。アメリカのいいなりの日本、しかもそのアメリカよりももっと強硬姿勢(の日本)。(この)日本の姿勢が理由になって、アメリカは攻めてくるかもしれないと北朝鮮の人は怖がっているかもしれない。
 「我々は攻めて行かない。私たちは、国際紛争を武力で解決することは一切やめた、交戦権も封印した国である。私たちは、あなた達と平和条約こそ結ぶ用意があるけれど、攻めて行ったりしない。だから、あなた達も日本を攻めないでくれ。テポドンなどもう二度と発射しないでくれ」、と言ったらいいと思います。北風とマントの話じゃないけれども、向うはもうガチガチになっています。なんと言っても国力なんかを比べれば、アメリカは強大だし、日本も大きな脅威として映っているに違いない。
 よその国が日本に非常に警戒心を持っている、だからわが国の防衛力をもっと高めなければならない、原爆も持たなければならない、という方向に(日本を)押しやるようなことをやってはいけないと思います。

日本を超えた中国の軍事費

 今年の3月、新聞を読んでいて小さな記事が私の心を引きました。3月7日付の朝日新聞の「国防費17.8%増、日本を抜く」という記事です。それは中国の国防費が去年よりも17.8%増えて日本を抜いたというものでした。中国も馬鹿げたことをやったと思う。中国は間違えている。日本は4.8兆円の予算を組んでいます。それに対し中国は2007年で5兆円、私はどっちも馬鹿げていると思う。これだけのお金があったら、世界でどれだけいいことができるかどうかわからない。いつ起きるかわからないような戦争のためにこんな無駄遣いしてどうなるか、と思ってしまいました。

防衛省の構造汚職

 そう思っているところへ防衛省の前事務次官の汚職問題が起きました。これは防衛省の一役人の問題ではないと思います。前事務次官の、ゴルフ接待費用とか、高級料亭での食事費用、娘の留学費用とかの問題に(追及の矛先が)集中していますが、問題を個人の問題に矮小化してはなりません。(防衛省が)タンクや戦闘機などの兵器の購入・調達(の際)に、~ここで商社が絡んでくるのでいやなんですが(笑い)、間に立つ会社がある~、水増し請求があるというのは酷いんじゃないですか。水増しがあることが分かっていてこれを認めた役人が悪い。こういうものには昔から必ずリベートがあります。それを見越して水増しを認めているのですから。防衛省の役人がキチンと計算していれば、他の国がタンクを一台300億円で買っていて、日本に来た請求書が500億円だとすれば、その差額200億円がどこかの懐に入っている(のは分かる筈です)。でも、何パーセントか何割かが自分の懐に入ることが分かっていたから、役人はこれを認めたんですね。今は、戦時ではなくて、平時です。その状態でこれだけ自衛隊のスタッフが腐っているということはすごく大変なことだと思います。山田洋行の防衛省への売上高は約100億円ですが、リベートが1%あったとして1億円のリベート。たいへんな額です。こういうことが罷り通っているということは、一人の事務次官の腐敗というにとどまらず、構造的な汚職です。軍事予算には常に水増しがあります。

日本の産業構造を支えている平和憲法

 もう一つ良くないのは、発注して、お金を支払うのはいつも国だということです。だから親方日の丸なのです。日本の戦後の復興は奇跡の復興だと日本人が考え、日本人以上にアメリカも強く思っています。しかし、その復興は朝鮮戦争特需のおかげでした。
 昭和25年、朝鮮戦争が起きた頃の新聞やその他の資料を見ていると、これは神風のようなものだったのが解ります。当時の為替交換比率は1ドルが360円だったけれども、外貨枠が厳しかったから実質1ドル400円以上でした。そんな時に、注文はドル建で、しかも現金払いでした。最初は朝鮮戦線で壊されたタンクを直すような仕事をしていた。日本はポツダム宣言で、一切の兵器の製造は禁止されているのだけれども、たちまち(兵器を)作るようになった。
 しかし幸いなことに日本はまだ、軍需産業、軍需景気によって国が栄えているとか、軍需産業を中心にしてこの国の経済が回っているというところまでは来ていません。それはなぜかといったら、憲法の前文と9条がある国で、軍需産業によってこの国が成り立つということは、いくら臆面もない政治家や経済人たちでもさすがにできなかったからです。だから、現在の日本は平和産業を中心に経済がまわっているのです。
 不景気だと言われているけれど、みんな程々になんとか生きていける。もちろん、端をみれば、生活保護が打ち切られて、今年は、50何歳の人が握り飯を食べたいと最後に書いて、餓死するというようなことが九州でおきています。そういう現象は起きてはいるが、例えば内戦が酷かったり、国全体の政治が非常に荒れたりしていて、食べる物にも事欠く、子供たちが栄養失調でこんな大きな御腹をして、或いは少年や少女が武器を取って闘わなければならない、そしてそこでは子供たちの世界が酷く荒廃している、レイプは日常的なことになっている、そんな悲惨さからは日本人は免れていると思います。

私の決意と小田実の『終わらない旅』の装丁について

 いま私たちは何をやらなければならないか。私はやはり小田さんが言った「小さな人間が動かなければ、世の中は変わらない」ということをお互いに確認したいと思います。去年の夏のことでしたが、小田さんは何を思ったのかある日私に電話を掛けてきました。いま思うと小田さんの作品のなかで完結した最期の長編小説になる『終わらない旅』を私に贈ろうとして掛けてきた電話だと思います。
 小田さんは私に言いました、「あなたは私と近いよね」と。小田さんが私に何を言いたかったのか(その時は)良く解らなかったものですから、なんとなくあいまいな返事をしたかもしれません。
 私たちはささやかな存在である。ささやかな人間であるけれど、誰にも奪われない志をもっている人間でありたい。私は、そういう人間が1人でも多くなることで世の中はよくなるだろうと思っています。いまだそのことを隠したことはありません。日米安保条約はやめた方がいい。平和条約こそ必要である。そして私は憲法を守って行く。これが私の掲げる旗です。(私は)たった一人になっても、自分が掲げた小さな旗をおろすまいと決意し、生きています。私がそういう人間であることを小田さんは認めてくれていて、「自分は小さな人間」、「その点であなたと近い」と言っている(のだと思います)。
 小田さんの小説『終わらない旅』の装丁は、三岸好太郎という画家が描いた沢山の大小の蝶々が海峡を渡っている絵です。この三岸好太郎というのは、三岸節子の旦那さんで、若くして亡くなった優れた画家でした。好太郎の絵にはいろんな絵があるのですが、この絵は近づいている死を感知したかのように海峡を渡っていく沢山の蝶々を描いたものです。小田さんは三岸好太郎のその絵を選んで『終わらない旅』の装丁に使っていたのです。
 「あなたは三岸好太郎と節子のことを書いているだろう。それにしても重なるところがあるよな」ということを小田さんは言いました。まったくその通りで、私はそういう本(『好太郎と節子』)を書き下ろしで出版してから間もなくのことでしたから。今思うと、もっとたくさん話をしておきたかったと思うけれども、でもそれが直接小田さんと言葉を交わす最後になるなんて思ってもいませんでした。ただ小田さんと話をしたということは私の中で忘れることのできないものとしてあります。
 講演会で小田さんのことを話し、帰ってきて後でアンケートを読むと、「小田実の話ばかりするな」とお叱りを受けることがあります。わたしが小田さんのことを話すのは、小田さんの意見としてじゃなく、小田さんの遺した志であると同時に、私も小田さんと同じようなことを言おうと思っていたからで、小田さんを悼む気持ちが強いから、小田さんの志の受け継ぎ手として話をしたいからなのです。小田さんはある講演会の最後で、みんなに向かって大阪弁で「しっかりしいな」と仰いました。私は偉くないからそんな「しっかりしいな」なんてこと皆さんに言わないけれども、私は「しっかりしたい」と思っているのです。

鶴見俊輔氏が答えに窮した、岡部伊都子氏の質問

 岡部伊都子さんという随筆家がいます。それから鶴見俊輔さんという哲学者がいます。鶴見俊輔さんはご存知のように「9条の会」の呼掛け人の中心的な人で85歳になられます。岡部さんと俊輔さんとの対談が本になっているのですが、その中で岡部伊都子さんは、婚約者が軍隊に取られていくとき「自分はこの戦争に反対だ」と言ったというんですね。でも岡部さんは恋人のその言葉の裏を汲み取れなくて、「わたしなら喜んで行って戦って死ぬ」と言って戦地に送り出してしまった。その婚約者は沖縄戦で死んでしまった。岡部伊都子さんは戦後その責任を引き受けてきたのです。自分は愛する人を戦場に送って死なせてしまった責任がある。その責任から逃れようとは思わないという気持ちで生きてきたのが岡部伊都子さん。この人は執念のように、やせ衰えながらもまだ生きて発言していらっしゃいますね。対談の中で岡部さんは俊輔さんにこういうふうに聞いたんですね。「どないしたら、日本はまともな考えの政治をするのかなぁ」。これ皆さんもそう思っているし、わたしもそうですが、わたしも誰かに訊きたい、答がほしいですよね。これに対し俊輔さんは「・・・」。沈黙なんです。答えられないんですね。暫くして、なんて言ったかというと、「後は継げないね」、~その後は言葉なんか継げない、返事なんかできないよ、という意味ですね~、「後は継げないね、後をついで話をするのは難しい。う~ん、いやぁ~、まいるなぁ~」。これが俊輔さんの返事なんですね。わたしは、俊輔さんがここでこの方法だなんて言っていないところが俊輔さんらしくて素晴らしいところだと思うんですね。

憲法九条が最後の砦

 小田実さんが非常に恐れていたのは日本の前途が危ういということでした。最近の日本を見ていると、馬鹿な奴らがでてきて、日本を壊そうとしている。第一次大戦で負けて、ワイマール憲法をもったドイツが合法的な選挙の結果、ヒットラーがでてくることを許した。あれと同じような道を歩もうとしているような気がする。でも、そうはさせたくない、というのが小田さんの気持ちだったと思うのです。
 戦後、日本は、合法的に選ばれた保守政権が続き、気がついてみたら人々の生活は脅かされ、世界の有数の中国もしのぐほどの軍事力をもった軍事大国となっています。そして福田内閣は臨時国会の会期を1月15日まで延長して、新しいテロ特措法を通し、なんとかブッシュのアメリカと共同歩調をとろうとしている。安倍さんが自分の内閣で憲法を変えるといったけど、辞めてできなかった。しかし福田内閣はその志を継ごうとしている。
 憲法9条が最後の砦なんです。これを突破されてしまえば、好きなようにこの国は軍需産業で成り立つ国にもなるでしょう。しかし憲法9条がある限り、胸を張って軍需産業で成り立つ国にするとはいえないし、やれないのです。
 先ほど名古屋空港で点検中に墜落して炎上した戦闘機は1機120億円だそうです。それを含めて日本はその飛行機を74機持っているんです。何とか重工がアメリカと共同開発した飛行機ですね。(事態は)ここまで来ているのです。わたしは自分を狼女のような気がすると言ったけど、実は狼と私が思っているものは、もうここにいるんですよ。ただわたしを襲って押しつぶさないのは憲法が、9条がまだあるからなんです。一遍に狼を羊にすることはできないけれども、狼が罷り通ることには反対、私は反対よ、ということを私は言い続けていきたい。

1人の100歩より100人の1歩

 そしてわたしが一人で頑張って言うだけでは力を持てないのです。これは、自分がダメだと思っているんじゃなくて、「お互い小さな力、小さな人間だけれども、この小さな人間(の小さな力が寄り集まって変えていく以外に変えようがない)」のです。
 これは亡くなった評論家の丸子秀子さんの言ったことばですが、「苦労を泣かせるな」、と丸岡さんは育てのお婆さんから聞いた言葉を教えてくれました。私たちは自分の苦労を泣かせてはならないし、他の日本人、或いはよその国の人達の苦労を泣かせるようなことをしてはならない、という意味だと思います。その苦労の多くは戦争によってもたらされたものである、ということも考えたい。
 そしてまた丸岡さんのコピーになっちゃうけど、「1人の100歩よりも、100人の一歩が大事」だと。これは小田実が言った「小さな人間が世の中をかえる。小さな人間が動かなければ、世の中はかわらない」んだ、といった言葉にみんな繋がるって来ることではないでしょうか。
 自分たちはささやかな存在であるということを、そんなに卑下する必要はないですね。かけがえのない一つの命を生きている。小さな、ささやかな人間であるということに誇りを持ちたい。そして、私たちは見届けることのない未来のどこかで、あの時、あの人たちが頑張った。だから、今があるのかもしれない、と未来の人間たちから思ってもらえるような大人でありたい、と私は思っています。

『蝸牛庵訪問記』にみる幸田露伴の世相批判

 ちょっと象徴的な文章にぶつかったので紹介したいと思います。
幸田露伴という、明治・大正・それから昭和にかけて活躍された大文豪といっていい文学者がおられました。幸田文さんのお父さんです。昭和22年に非常に高齢でお亡くなりになりました。日本が日中戦争、~その頃の言葉でいう支那事変ですけれども~、をやって戦時色(が濃く)なって行くなかで、昭和15年、木綿がなくなる、木炭がなくなる、お米も十分食べられなくなる。戦争をやることで物質的に皆の生活がひしひしとやせ細っていく。幸田露伴は、決して政治的な人ではないけれども、そういう世相、軍人のやること、軍人に追随する政治家やなにかのやることに非常な批判を持っていた人です。
 その幸田露伴が息子のように愛した編集者に小林勇という人がいました。この人は中学を出てから岩波書店に入って、いわばたたき上げで編集者になり、幸田露伴のところに出入りして、非常に愛された人です。私は会ったことはありませんが、狷介な人だったと思うんです。私は怖がって傍に行かないうちに亡くなってしまいました。本当に馬鹿なことをした、会っておけばよかった、と後悔しています。
 その小林勇に『蝸牛庵訪問記』という本があります。非常に優れた本ですが、もう絶版で、私は古書店で手に入れて読みました。蝸牛というのはカタツムリのことです。露伴は自分の家をもたなかった。カタツムリには家が無い。だから自分の家に蝸牛庵と名前をつけたのですね。その蝸牛庵を訪問した(際の)ことを小林勇さんが書いた本です。
 昭和15年、~米も十分食べられない、新聞見ていてわかるんですけど、お宅は炭はどうですかというのが日常会話になっている~、日常物資が無くなっていく、そんな世相の昭和15年のある日、小林勇が幸田露伴のもとに訪ねていくと、二階の書斎に案内される。そこで露伴が唄を歌ってくれた。変な節回しで決して上手くない歌です。だけどその歌詞は凄くいい歌詞なんです。

   大川を大根が三本流れていく
   先なる大根は流れていく
   次なる大根はもちろん流れていく
   いっき後なる大根は頭(かぶり)ふりふりやっぱり流れていく
   大川を大根が三本流れていく
   流れゆく、流れゆく

  こういう唄を歌ったというんです。大川というのは時勢ですね。流れていく大根というのは、その時勢に流されていく人間だと私は思うんです。小林さんもこれを聴いたときに、この唄には時勢というものがある、いまの時勢に実にピッタリだ、大川に流れる大根のごとく人々は時勢に流されていく、と小林さんは書いているんですね。私は(これを読んで)この大川に流れる三本の大根って、なんて凄い象徴だなと思ったんです。

時勢に流されないために――先人の思いを引き継ぐ

 それで今の時勢は、なにが今さら憲法九条だ、なんて罵倒するような言葉の方を新聞を見ても雑誌をみても大きく取り上げる。特に雑誌の方がひどい、TVもひどいですね。そうすると体力の無い時にはもう駄目かなぁと私は思うこともある。でもね、そうじゃない。私のすることは大根に噛り付こうとしている鼠だなぁと思ったのね。来年はねずみ年だなぁと(笑い)。
 でも大根には意思が無いんですね。それで流されていく。でも私たちは一人ひとり意志を持てる個の存在です。個という存在を認めなければならないという風になったのは近々、この60年余りのことです。戦争に負けるまでは、日本には個として尊重される日本人なんていなかったと思った方がいいんです。一旦緩急あればと教育勅語にあるけれども、赤紙で召集されたら、私はいやです、といって逃げる自由は日本人にはなかったんですね。だから個の尊厳などというものもなかった、決して幸せではない社会の後に、多くの犠牲をもたらした戦争の結果として、~これは城山三郎さんがいつもよく言っているのですけれども~、「敗戦で得たものはたった一つ。憲法だけだ」といった。その城山さんも亡くなった。大事な人が次々に亡くなっていくのは、悲しい。でも、残されたものは、先に逝ってしまった人たちがこの世に残した思いを受け継いでいくべきであろうと思います。
 家族や隣の人たちを一遍に9条を守る会に引っ張り込むのは無理かもしれません。でも、ほんのちょっとでも話し合って下さい。そして迎えられるような話し合いをしてください。そして我が家のなかでその話が無理だったら隣のうちの人とやってください。隣の人がこっちの家の人とやればいいんです。そうやって、少しずつ少しずつ色んな輪を広げていきたいと思います。
 こういう会の講師として言うべきことではないかもしれないが、早く国会を解散して、衆議院選挙をやればいい。そして、私たちは勝とうではありませんか。小沢さんが駄目だの、民主党が駄目だの、政治はどうせ駄目だのということは止めにしましょう。私たちが選ぶ。もしだめならば、また変えればいい。権利と義務は私たちの側にある。今、試されているのは偉い人たちではなくて私たちだと思います。

以上


質問と回答

Q1 日本女性と着物に関して
日本女性と御着物に関して、特別なお考えがございますか?
A (略)
Q2 どうやって自衛隊をなくすのか
日本の自衛隊は明らかに憲法九条に違反しています。九条を守るためには自衛隊を今すぐは難しいとしても、いずれなくさせねばなりません。どうやって自衛隊をなくすのでしょうか。
A これは本当に難しい問題だと思います。仮に一遍にそうしようとしたら、自衛隊はクーデターを起こしますよね。武装集団には奥の手がある。そのことも考えながらやっていかないけれども、まず海外派兵というものを止めることです。絶対外に出ないこと、これは今だってやっていることですよね。段階的に縮小していきたい。一遍にゼロにならなくても、1割減らし、2割減らして、気が付いてみたら大分小さくなっているという風にしたい。その代わりに、日本として、平和のために、世界のために、何ができるかといえば、国際救援隊というものを持ちたい。これは地震に遭った、津波に遭った、或いはその他の大きな病気、伝染病が広がってどうにもならないというような時に、全部日本の費用で、よく訓練されたスタッフが、その土地の習慣とか言葉とかも習熟している人たちが出掛けて行って必要なことをすべてやる、そういう国際救援隊を私たちは持つ。私たちは武力を持たないし、交戦権も放棄しているけれども、私たちの国の特色はこういうもんですと言って世界に示すようなものを持ちたい。これは日本国内で起きた災害にも丸腰で出動するという、そういう救援隊を持つべきだと思います。また日本は例えば公害にたいしても悪い意味での先進国で、たくさんの教訓と知恵を持っています。こういうことはあってはならないというノウハウ等を実践していいと思う。お互いに(地球号という)ひとつの船に乗っている地球人なんですから、国境は無いでしょう。そういうものを私は持ちたいと思います。今の自衛隊の人たちを武装解除して、こういうことにするのは無理かもしれないけれども、だんだん縮小して行って、代わりに持つべきものとしての方向はこういうものを持ちたいと思います。因みに、いまの国会の衆参ねじれ現象の中で福田さんがなんと言ったかというと、「だいたい法案一つ通らないじゃないですか。こんな国会ないですよ」、とあの人は冷静に怒っていました。でも、ふざけるなと私は思ったんです。被災者救援の法律が通ったんですね。でもあれは元々小田さんたちが始めた市民立法ですよね。いまになると誰が始めたか忘れちゃって、自分たちが立法しようとしても法律が通らないと言わんばかりの口調でしたけれど、そうじゃないんですね。被災者として、これが人間の国か、こんなに酷いことが有っていいのかと小田実は怒った。そこからあの人は一緒にデモをやり、中央で市民立法を目指して国会議員を動かし、不充分だけれどもその法律が通ったから、阪神淡路大震災の後で被災した人には不充分でも国からお金がでるようになった道を開いたのですね。災害大国のやるべきことはこれだと思います。自衛隊は警察予備隊から60年掛かってここまで来たのですから、60年掛ける必要はないけれども、10年やそこらは掛かると覚悟しなくてはならないですよね。でもまず外に出さないことが第一。テロ特措法の新法は何とか国会で通らないようにしたいと思っています。
Q3 徴兵制について
憲法改悪されたら徴兵制が復活すると言われています。周りの人にそれを言うと「甘ったれているから徴兵制があって、そこで鍛えられた方がいい」という人がいます。先日何処かの知事も同じことを言っていました。それは違うでしょうと思いますが、きちんと伝える言葉が見つかりません。どのように思われますか?
A 東国原(ひがしこくばる)宮崎県知事が同じようなことを言っていましたね。あの人が当選した時、マスコミが非常に意外だと書きましたが、私は当然そうだと思いました。何故かというと、宮崎九条の会の講演に行ったのですが、まぁ九州のことではあるし、どれくらい人が集まるかなぁと思っていたら、会場が溢れるような盛会だったんです。ここは市民運動が非常に盛んになりつつあるなぁという実感があったんです。だけど新聞記者たちもTVの記者たちも現場を知らないんですね。だけど、あの九条の会を守ろうという熱気のなかで、あの人は出てきたのですね。でも彼は自分がどうやって選ばれたのか、なぜ選ばれたのか、セールスマンになるのもいいけれど、よく解っていないんですね。前言を撤回しないけど、いま一生懸命修正しようとしていますね。もし軍隊に入って人がまっすぐになるならば、昔の日本人は皆まっすぐだったはずですね。でも軍隊に入って何を覚えたかというとリンチだったんですね。上から下へと降りてくるあの支配構造の中で、人間性を殺されて自殺する人もいたし、性格がゆがんでしまった人もいる。軍隊に入って人間がよくなるなんぞというのは虚妄の、根拠のない話だと思います。警察予備隊がたちまち保安隊になり、自衛隊になったと言いましたけれども、
(保安庁・防衛庁の)最初の長官だった木村篤(とく)太郎(たろう)、~かれはかなり有名な右翼だと思いますけど~、この人が国会の初期の答弁の中で、軍隊を持つ方向にあるけれども徴兵制をどうするのか、という質問に答えて、「それはなんといっても志願制よりも安上がりだ。しかしこの憲法ではそれはやれない」、と言っているのです。
徴兵をやって、軍隊の中に入れたら、若い人たちがキチンとなるなんていう夢は棄てた方がいい。いま若者たちが色んなお馬鹿なことをしますが、それには手本が有るじゃありませんか。あのしょっちゅう出てきて最敬礼をする人たちは何ですか。ちっとも反省なんかしていない、その時だけ頭をチョッとだけ下げればいいと思っている。男たちだけだと思っていたら、女も頭を下げるようになった(爆笑)。大人が悪い手本を示すのを止めれば、若者はよくなります。
若者たちは(戦前の話をすると)、生まれていません、と直ぐ言うけれども、ちゃんと一生懸命話しかけて、こちらが話し合おうという姿勢を示すと(話を聞いてくれます)。やっぱり知らないことは知りたいんですよ、若い人は。だから私たちは、また愚痴を言っている、と思われるような話ではなくて、なるべく自分の体験を客観視して、もっと淡々として、どんなことが戦争の時代にあったのか、例えばあなたの曾祖父さんはどうやって死んだのか、ということをちゃんと話してあげる必要がありますね。
私は絶対教師にはなるまいと思ってきた人間です。私にとって教師はいつも反面教師であった気がします。但しひとつだけ例外があって、沖縄の琉球大学で半年だけ講座を持った(ことがありました)。その時には試験もしません宿題も出しませんでしたが、一つだけ課題を出しました。孫のような学生たちに言ったんです。辿れる限り辿って自分の家の家譜、~英語でFamily Treeというんだそうですが~、を作って、それに学歴、~読み書きができたかということですが~、何歳の時どういうことで死んだかを調べて報告を書いてくれ、それが私の課題ですと言ったんですね。
ひとつのFamily Treeを調べていくと、どこかで戦争に係わった人が出てきます。それから貧しくて義務教育も受けられなくて一生涯読み書きできなかった、~私の祖母はそうですけど~、そういうお爺さんとか、お婆さんとか、曾祖父母なんていう人かがいないような一家はありません。一般の生活レベルの中で自分の血に繋がる人たちをずうっと遡って調べていくと、皆がみんな幸せに生きて死んではいないんですね。戦争とか貧しさのなかで、たった一つの命をむざむざと奪われて人生から答えをもらっていないという人生に必ず出会います。他人の話を聞き、本を読むことも大事だけれども、読書で知ったことはなかなか血肉にならない。だけど今自分が生きているということに繋がっている誰かの話はもうチョッと近いですよね。若し写真があったらその写真を見てみればいいんですね。どこか似ていますよ。私は孫のような学生たちにそれをやってくれと言いました。
徴兵の問題にしても、自衛隊をどうするかという問題にしても、なかなか難しい問題です。それは戦後62年間の日本の政治の歩みです。これはどこからかやって来た現実ではなくて、有権者であった人たちが選び選びしながら、これはおかしいと思いながら、しかし大勢としてはひっくり返すことができなくて、ここまで来た(現実です)。でも幸いなことに、日本は第二次世界大戦の後で、まだ公式の戦死者をひとりも出していない国です。そのことに対しては誇りを持ちたい。私はアメリカの戦死者の遺族を訪ね歩きました。中国でも、ロシアでもそうして歩きました。どこの国でも、普通の国では第二次世界大戦の終わった後で、愛する人が死んだというその悲しみを引きずって生きている家族が必ずいました。でも日本には(そのような家族は)ないということを私たちは大事な宝物として生きて行きたい(と思います)。多分、きょうこの寒い日に皆さんが集まって、私の拙い話を聞いて下さったことも何かの意義があることだろうと思います。
Q4 お薦めの本一冊は
娘に一冊の本をプレゼントしたいと思います。お薦めの本を教えて下さい。
A 1冊とは言えないけれども、お婆さんも子供も含めて読んでいいと思うのがあります。近年亡くなった詩人に茨木のり子さんという詩人がいますが、その茨木のり子さんが詠んだ詩の中に長編詩「りゅうりぇんれんの物語」というのがあります。劉蓮仁は、(昭和19年)中国から日本(の炭鉱)に強制連行されてきました。(かれは脱走して)、戦争が終わった後も、逃げて、逃げて、逃げまくって、(山中に14年間も隠れていました。)その後、助け出されて、故郷に帰って、もう歳をとった妻と再会することができました。(この)劉蓮仁という人のことを書いた長い作品です。それを読んでください。日本と中国の間に嘗てあったこと、それから今わたくし達が考えなければならないことを、茨木さんは素晴らしい詩の表現で伝えてくれています。茨木さんの劉蓮仁を詠んだ詩を一冊の本としてお薦めしたいと思います。

以上

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